昨年の内容をそのまま掲載いたします。
どうぞみなさま、過去に何が起きたか、
以下の体験談をご覧下さいませ。
今日は、
長崎平和記念日です。
私は出勤前、
黙祷をしました。
(黙祷時刻11時02分、出勤時刻12時10分)

さて、長崎原爆のお話です。
最近、聞いた話や調べた内容で判明した事ですが、
アメリカ側の記録などによると、
1945年(昭和20年)8月9日は、
福岡県の小倉市(現在の北九州市小倉北区)が攻撃目標でしたが、
雲が厚くて投下目標(小倉城=現在の北九州市役所付近)の目視不可。
その直後、旧日本軍の戦闘機たちが近づいてきたので、
それをふりきって、第2目標の長崎市へ移動。
そして雲の隙間から浦上の投下目標を目視、
爆撃機の残余燃料も少なくなったので、
爆撃機を帰投させるため、11時2分に投下した。
以上が真相だそうです。
つまり爆撃機の燃料消費を減らすため投下されたわけです。
もし、あの時長崎が小倉と同様、
雲に覆われていたらどうなっていたのでしょうか?
爆撃機は沖縄(当時は米軍の占領下)に帰投したので、
もしかしたら途中の熊本か鹿児島に投下したか、
もしくは海上に投棄したか?
または、
私の友人も
健康のままかもしれません。

私には、被爆三世である、
大学時代の友人がいます。
ここで、彼のことを紹介いたします。
彼は茨城県神栖町(現・神栖市)の出身ですが、
彼のお母さんは長崎市の出身です。
彼のお母さんは、
彼のおばあちゃんの胎内にいたときに被爆して、
その翌年、生まれました。
彼のお母さんは被爆者手帳を所持しております。
で、私が見た感じの友人は、
「被爆が影響」を象徴しているような感じで、
病弱で、いつも貧血気味、
本当に放射能被害が影響していた感じに見えました。
なお、現在でも友人と彼のお母さまは健在ですが、
「健康面で心配」と語っていました。
以上のエピソードは、
私の大学時代(1986年:昭和61年)から、
現在までの私の友人のエピソードです。
68年前の原爆投下は、
21世紀になった今でも
影響しております。
みなさまは、
どのようにお考えでしょうか?
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